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2023.07.13 Thursday
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TIME TO SAY GOODBYE
2006.12.31 Sunday
毎日更新をしてきた当日記も明日で5年目を向かえることになった。精神安定剤替わりにつらつらとどうでもいい事を書いてきたが、それは来年も変わらぬことになるかと思われる。競馬の方は相変わらず当たったり外れたりだが、自分なりの予想方法がようやくまとまってきた感じもしている。 ただ来年は月末に、自分自身の人生においてかなり重大な決断を迫られる事になりそうな気がしている。その決断が最悪の展開を迎えると正直ネットにアクセスする時間的、精神的、そして何より金銭的な余裕も消える事になるので、ある日突然日記更新が止まったら「あぁそういう事になったんだな」と御理解頂ければ幸いである。 年内の更新はこれにて。一応競馬ジャーナルという冠で4年間も書いてきたんだから今年の競馬を振りかえる的なテーマで12月31日付けの日記を夜にアップしたいと思うが、実際に書くのは日付変更線を過ぎた時刻になりそうだ。 それでは数名おられる読者の皆様の御多幸を祈りつつ、何よりも自分自身の幸せを、そんな大そうなものはいらないな、危機の回避を希望しつつ…、とにもかくにも、何ごともない、普通の1年を過ごしたいと切に願うばかりである。しかし世の中は世知辛いもの、多分9分9厘、来年の今頃は尋常では無い状況に追い込まれているのが想像できる。もしかしたら今日が年の挨拶の最後になるかもしれないなと自覚をしながら…。多分来年は私には良い年にはならないでしょうから、せめて読者の皆さんには良い年である事をお祈りしております。では。 黄昏行く師走の空の下にて
2006.12.31 Sunday
今日の22時から教育テレビで放送されていたETV特集「2006年夏・戦場からの報告〜レバノン・パレスチナ〜」は、最近見た報道番組の中では出色の出来だった。今夏レバノンを中心にして中東で何が起きていたのかそして今も何が続いているのか、市民生活の現場から平たい視線による丁寧な描写でそれを報じていた。 レバノンもイスラエルもパレスチナも事実上戦場の真っ只中にいる訳で、現場からそれを報じるという事は、当然ながら残酷な映像も流れる訳だが決してモザイクなどをかけずに、そのまま、ありのままを映していた。番組制作サイドのそうした逃げない姿勢に深く感銘する。私が拙い文章で紹介して中身が粗雑に伝わってもなんのなので詳細は割愛するが、必ず再放送する番組だと思うのでその機会が来たならば是非とも当日記で紹介したい。 今日は大井で東京2歳優駿牝馬、競輪はKEIRINグランプリと大きな博打が二つあったが、大井では馬券を的中(と、言っても少額ですが)競輪はよもやの吉岡引退騒動の中でレースは波乱の結末に。吉岡といえば一時代を築いたスーパースターであるだけに、こういう引退の仕方、そして報道のされ方は、一ファンとして残念としか言いようが無い。引退レースとなった今日の試合ではかつての先行脚も生かせず、最下位に沈んでいった。精魂力尽きて消え去っていく吉岡の疲れた姿を見るに、何とも言えない寂寥感が胸を去来する。それと比して大井では若手騎手の台頭に押されて最近影が薄くなり始めた的場文男、石崎隆之の両巨頭がワンツーフィニッシュを決めていてナンだか嬉しくなった。過去に何度も大舞台で見せ付けられてきた最内を鋭く突く石崎、そして今日は最後方一気で決めた的場、ベテラン騎手がその持ち味を遺憾なく発揮した良いレースだった。石崎や的場騎手にも何れ別れの時がくるのは違いないが、今日の吉岡の様な形で送り出すのだけは避けたいものだ。 因みに勝ち馬のブラックムーンというのは、金沢から転厩してきた大物牝馬だが最近見た大井の2歳戦では、私の記憶に無いような物凄い豪脚を見せてた、破格の好内容であった。この馬の名前は中央競馬ファンの人でも頭の片隅に入れて置いて損は無いかと思われる。また2着に残ったヒビキウィンはこの日記で何度か触れている今年度行われた道営2歳戦で注目レースであったリリーカップ出走馬。中央ではなかなか結果が出ない今年の道営2歳馬だが地方ではきちんと馬券に絡んできているので、今後は中央競馬で道営2歳馬の活躍は諦めて、地方で小銭を稼ぎたいなと思っている。 東京大賞典展望
2006.12.29 Friday
大井競馬場は、数年前に行われたスタンドなどの改装時に全面的な砂の入れ替えを行った。噂によるとアメリカのダートコースに近い砂質に変えたらしい。まぁここからは推測だがその入れ替え以降、どうも交流重賞などでの結果に変化が見られるようになった気がしないでもないが、まぁあくまでも私の妄想なので信じないで下さい。 さて東京大賞典である。大賞典が中央との指定交流競走になってから今年が12年目を迎えた。過去10年間の区切りで見ると複勝圏内の成績は中央所属馬が5勝、2着7回、3着4回。つまり勝率5割である。この数字をどう見るかだが、私は地方馬大健闘と見ている。オッズ的な事を考えれば更に強調できよう。因みに地方所属馬は当たり前の話だが1着5回、2着3回、3着6回となっている。基本的な事を言えば東京大賞典は、普段地方の馬券を余り買わない人、もしくはJRAを中心に馬券を買っている人が大挙して参加するため、中央馬が過剰人気になり、その逆に地方馬が過少人気となる傾向がある。 私のここ数年の大賞典の予想パターンは軸馬を地方馬、相手は人気の中央馬というスタイルだ。ただ今年は少し考えたい。と言うのもここ数年とは明らかに傾向が違うからだ。今年の場合、中央競馬ファンの様な新規参加者であっても間違いなく人気にするであろう馬、地方馬アジュディミツオーが1番人気を取るであろう点に着目したい。何せ鞍上は既に中央でも名の知れた内田騎手が乗る訳で、只今2連覇中、例え6ヶ月の休み明けであってもミツオーに人気が集中するのは容易に想像付く。 と、言う事で今年に関しては、期待値を考慮して軸馬を中央馬から、そして連下に人気薄の地方馬を拾っていくという形に変えたいと思っている。評価の基準は地方でのダート交流重賞では軸馬は勢いと安定味を、穴馬は過去の実績をという感じでいこうかなと。 で軸馬は安定性抜群、鞍上も相性いい横山典騎手、磐石の態勢で迎えるシーキングザダイヤでから素直に入りたい。で、相手は地方馬筆頭評価にはJBCの3着馬であるボンネビルレコード、その次には一回叩かれたシーチャリオットと大井得意、そして鞍上魅力のクールアイバーをあげておきたい。中央馬では前走は位置取りで負けたハードクリスタルの巻き返しを筆頭に評価したい。そして穴目には番手で逃げた時に怖いクーリンガーを。 ◎シーキングザダイヤ ○ボンネビルレコード ▲アジュディミツオー 注ハードクリスタル △シーチャリオット、クールアイバー、クーリンガー イーストウッドの伝言 硫黄島からの手紙を見て(4)
2006.12.29 Friday
<下から続く> イーストウッドはここ数年、自らを整理するかの如くの作品を発表し続けてきた。アメリカという国家の持つ矛盾を冷徹に描き、また生と死の関係をも厳しく問い掛けている。それは何れも死んでいく命よりも残されていった命に軸足を置く、そこにイーストウッドの真骨頂があるのだ。「ミリオンダラーベイビー」では安楽死を取る女性ボクサーを描きながら、それを選択し尚且つ一人残されていくイーストウッドが演じた老トレーナーを映し出していく。だからこの映画を見終えた時に、我々観客は老トレーナーの心情に吸い寄せられるからこそ、その残されていく命の切なさを噛み締め、打ちひしがれるのだ。悪人が死んでジ・エンドにはならない、誰かが死んで大団円を迎える様な安易なエンディングを求めない、イーストウッドの視点は、我々観客の胸の奥底に眠る感情を鷲掴みにして揺さぶってくる。 それ故にこの硫黄島2部作の持つ重さ、深さは、見終えた後にジワジワと日増しに押し寄せてくる。イーストウッドからの遺言とも言って差支えないような厳しく命を見つめる映画。それがこの硫黄島2部作の根っこでありそれを戦争というアメリカ社会が今も抱えている現実問題にフィードバックさせながら、尚且つ一点の曇りの無い筈の第2次世界大戦を舞台にして、それを訴えるイーストウッドの強靭な主張。声高にスローガンを掲げる映画ではないからこそより主張が伝わってくるのだ。昨今の映画の何れもが死に逃げ込み、物事を片付けてしまう話ばかりであるからこそ、この映画の輝きは一層増している。 12/28加筆訂正 イーストウッドの伝言 硫黄島からの手紙を見て(3)
2006.12.28 Thursday
<下から続く> アメリカに憧れ、アメリカを羨望していた、栗林中将以下のエリート兵士は、無闇な自爆攻撃や突撃による無為な死を最後の最後まで拒否し、生き残る為の戦術を最後まで取り続ける。家族の為に生きて帰る、しかし国家のためには死ななければならない。この相反する2つの道を同時に選択するという正に理不尽な道。その状況に追い込まれていく栗林の苦悩を描く事で為政者、指導者らが軽々しく死に逃げていった所謂玉砕戦法や神風特攻等の事象をも否定してみせる。この映画の凄みは保守本流の思想とは何たるか、という視点まで到達している点にある。 イーストウッドは、両方の映画とも現在生きている、もしくはあの戦争から生き残った人々を中心軸にして回想という形で物語を進めていった。生き残った命、しかしそれは何らかの必然があったからでなく確固たる理由があったわけでなく理由なく選ばれた生であった。イーストウッドが選択したその描写方法は、亡くなって行く命を悼み、そこから戦争の悲惨さを訴えるのでなく、理由無く生き残ってしまった命を描く事で戦争における死の重さとそれ以上に重い生き残った命の重さを訴える。 前々作「ミリオンダラー・ベイビー」もそうであったが、この2作品を観終えた後に席を立てなくなる位の重く圧し掛かるこの映画の持つ空気とは、その死んでいった命の悲しみに心を馳せるからではなく、残された命の苦しみが胸を突き刺してくるからだ。死でなく生に力点、軸点が置かれているからこそ、言い換えれば死に逃げ込むのでなく、生を見つめる、見続けるからこそ現実味を持たせるのである。 <更に続く> イーストウッドの伝言 硫黄島からの手紙を見て(2)
2006.12.28 Thursday
凄惨を極めた硫黄島で繰り広げられた戦いの現場には、国家から動機として与えられた正義の形はなく、未来溢れていたはずの若者らが次々に命を落としていく。まるでドキュメント映画の様な淡々とした感情を排した俯瞰の演出が、この戦場で起きた壮絶さや無情さ、そして理不尽さを逆にくっきりと炙り出す。決して惨たらしいシーンが出るわけでなく敢えて見るものの感情移入を拒否するかのごとく、あくまでもイーストウッドは誰に寄り添うわけでなく、物語を淡々と進めていくのだが、そこに貫かれているものは、大いなる矛盾と理不尽さ。アメリカに情景を持つ近代主義者である司令官栗林の苦悩、それは司令官の理屈として国家の為に死ねと命じつつ、その一方で家族や愛する者の為に生きて帰ると念じるいうこの矛盾に他ならない。戦争によって齎される生と死の理不尽さ。戦争は死も生も理由を付けて選ばない。死んでいく命も生き残っていく命も、その選択は誰かが決めるべくも無い。 銃砲の先にいる兵士も自分たちと変わらぬ気持ちで変わらぬ人間として描かれる。東には東の正義があり、西には西の正義がある。お互いがお互いの信じる正義の為に向かい合い、そして殺しあう。それが戦争の本質であり、そのぶつかる先では英雄などは存在しない。倒れゆく兵士は誰しもが国家、為政者らの犠牲者であると、イーストウッドは語る。敢えて栗林中将以下の英雄的な行動や戦争映画に付き物のカタルシス溢れる描写を徹底的に排除している点にその強い意志を感じざるを得ない。国家の持つ冷たさと欺瞞さを描くそれがこの二部作に徹底して貫かれている背骨の部分である。 この硫黄島2部作はアメリカという国が建国以来続けてきた「自分たちの信じる正義の為の戦争」を否定し「戦場における英雄の存在」を否定し「国家のための死」を否定しながら「生き抜く強さ」を持つ事の難しさと大事さを静かに訴える。アメリカと日本を対比して描き、この両者の関係に関連性を持たせる事で、その中に隠されているこの「生き抜く強さと冷徹さ」を浮かび上がらせる。 <上に続く>
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